ホメオスタシス

ホメオスタシスという言葉を聞いたことがあるでしょうか。
ホメオスタシス(homeostasis)、日本語では「恒常性」といいますが、生物のもつ基本的な性質のひとつで、体の状態を常に一定に保とうとする働きをいいます。簡単にいえば、転んで膝小僧を擦りむいても、いずれ血は止まり皮膚が再生して元どおりに治ってゆく、という生体機能です。

ホメオスタシスは心の状態にも機能します。
人 生には様々なことが起きます。卒業、就職、失恋、結婚、出産、失業、離婚、災害、戦争、離別、病気・・・もっと些細なことであっても、人はそのときどきの 出来事やきっかけによって感情が動き、気分が良くなったり、悪くなったりします。つまり、悲しいことや辛いことがあっても、人はどうにかしてそれを乗り越 えて、やがてまたいつもの自分に戻ろうとします。

「いつもの状態」というのを、その人の「ベースライン baseline(基準、安定値)と考えます。そして、そのベースラインへ戻ろうとする心の働きもホメオスタシス(恒常性)です。

いつも上機嫌で溌剌とした気分がベースラインの人もいれば、いつも不満いっぱいで何かにつけ面白くない気分がベースラインの人もいますし、いつも不安でいっぱいの悲観的な気分がベースラインの人もいます。

では、この気分のベースラインは、個々人にとってどのように決まるのでしょうか。
生まれつき(遺伝)なのか育ち(環境)なのか?

「もてあます心・うつ病編」で紹介した、精神医学・人類遺伝学のKenneth S. Kendler先生の研究グループが、ここでも双子研究を使って三大陸12,000以上を対象に調査しています。
データによると、同じ遺伝子をもつ双子の気分のベースラインの差は、1歳から青年期、成人期を経て60歳になるまで、徐々に離れてゆき、その後ほぼ横ばいになるという結果を示しています。つまり、幼少時から子ども時代は遺伝(生まれ)に因るけれど、歳をとるに従って徐々に個人的環境(育ち)の影響が大きくなるというものでした。

この「遺伝(生まれ)か? 環境(育ち)か?」という問題については、そのうちに詳しく書くつもりですが、だいたいの精神疾患において「遺伝的要因がベースにあり、それが発症するかどうかは個人的環境(育ち)による」という研究結果が出ているようです。

話をホメオスタシスに戻します。元の状態に戻ろうとする働き「ホメオスタシス(恒常性)」は、「変化を拒む」とも言い替えることができます。つまり、人(生物)は変化を嫌うというのが基本にあるとうことです。

それに関連して、心理学で抵抗(治療抵抗)という概念があります。「抵抗」というのは、病気を治したい、苦しみから逃れたい、幸せになりたい・・はずなのに、そのための治療や心理療法に抵抗する心の働きをいいます。

た とえば。改善の兆しが見えてくると、薬を飲まなくなったり、カウンセリングをキャンセルしてしまったり、嬉しいとか幸せという感情を無意識のうちに拒否し たり、つまり変化することへの抵抗ですね。心のベースラインがプラス(健康)の状態にあるか、マイナス(病的)な状態にあるかで、ホメオスタシスも抵抗 も、同じ心の働きを示しているのです。

いわゆる大うつ病は数ヶ月~1年ほどでもとの元気な状態になって社会復帰できる疾患です。それは、一般的に大うつ病になる人はもともと心のベースラインが健康であり、その状態へ戻ろうとするホメオスタシスが働くからです。

ところが、パーソナリティ障害など、長年の経過のなかで歪んでしまった心の状態がベースラインとなっている人には、抵抗によって健康な心になることを拒否する現象が生じます。つまり、歪んだ状態が当たり前で、健康な心の状態は未知の領域になるわけです。したがって、治る=元の状態に戻るということではないのですね。

今まで辛くても苦しくても何とかやってきたのに、あえてよく知らない未知の世界に足を踏み入れることは、不安や恐怖と向かい合うことでもあります。それならつらく苦しい状態でも、今のままでいるほうが安心だし楽、と感じてしまうわけです。

このように、心の状態がよくなってくると、無意識のうちに、逆に元の苦しい状態に戻ろうとしてしまうケースは意外に多いのです。

では、どのように改善を目指していくとよいのか。
パー ソナリティ障害などの場合は、じっくりと腰を据えた長期のカウンセリングによって、抵抗による引き戻そうとする力に対抗しながら、じわじわとベースライン そのものを健康な状態に近づけてゆく必要があります。短期心理療法で一時的によくなっても、カウンセリング終了後に再び悪化してしまうケースが多いのは、 この元に戻ろうとする抵抗が働くからなのです。


心の病を抱えた人に、ただやみくもに「変わらなくちゃ!」と変化を押し付けることは、とてつもなくきつい思いをさせてしまう場合もある・・ということを知っておくといいかもしれません。